【FESTIVAL CO.の杉下正樹さん】地元・茅ヶ崎からフェスを始める。GREENROOM の修行を経てフェス企画会社を設立。
(前回の記事はこちら→茅ヶ崎・サザンビーチ初の有料野外フェス「PACIFIC BEACH FESTIVAL」を仕掛ける)
――― 杉下さんは茅ヶ崎生まれ、茅ヶ崎育ちですよね。
杉下 はい。茅ヶ崎の柳島で生まれて、中島中学、西浜高校に通っていました。
――― 現在はフェスの企画をされていますが、学生時代にその原体験はありますか。
杉下 高校最後の体育祭ですね。
三年生のときに仲間と「最後ぐらいキメようぜ」ってことで気合入れて、応援団長をやったんですけど、それが賞を総なめにして。
――― 賞があるんですね。
杉下 応援の企画とか総合力とか、そういうことに贈られる賞がいくつか用意されていたんです。
あの時に仲間と一つのことを創り上げる喜びを知ったと言うか、あれがイベントを企画するモチベーションの原体験だったと思います。
――― あと音楽・ライブという点ではいかがですか。
杉下 同じく高校の頃に茅ヶ崎の海で見た「Fly Hi Beach Stage」っていう音楽イベントが原点ですね。
当時ミクスチャーバンドが流行っていて、ぼくもコピーバンドで山嵐とかやってたんですけど、なんとそのイベントに彼らが来てて。
――― コピーしてた人たちが、地元の海でライブしてるってすごいですね。
杉下 そのときの「海のライブ最高!」っていう感動をいまでも覚えていて、やっぱ箱の中で聴くというのとは全然違う魅力があるなって。
「Fly Hi Beach Stage」は茅ヶ崎のイケてるチームの人たちが関わってたんですけど、その背中に憧れましたね。
――― 高校卒業後は何をされたのですか。
杉下 その時は自分のやりたいことがはっきりしてなくて、単純に運動が得意だったから日体大(日本体育大学)に行きました。
この「自分は何がやりたいんだろう」状態は大学に入ってからも続きましたね。
――― 誰もが通る道ですね。
杉下 日体大に行く人たちって体育の先生になる人が多いので、自分もそっちかなと思ったんですけど、教育実習先にやんわり断られちゃって。
――― よほどやんちゃだったんですね(笑)
杉下 いやいや、ぼくなんて大人しいほうですよ(笑)
で、結局カチっとしたものが見つからないまま大学を卒業して、半年ぐらいは就職せずに過ごしてました。
――― 焦りはありませんでしたか。
杉下 焦りましたねー。
先が見えない不安とか、友達はもう働いてるのとか見てると余計にね。
「自分は世の中から必要とされてないんじゃないか」っていう。
――― きついですね。
杉下 いま思えばそういう時期も「全然アリでしょ」って言えますけど、当時はそんな余裕なかったですね(笑)
ただその期間で自分について考えて、高校の体育祭とか、ライブとか、そういうときの自分を思い返したときに、「イベントかな」って思いました。
――― それでイベントの運営会社に就職されたんですね。
杉下 はい。「イベントが自分の生きる道だ!」っていう確信があったわけじゃないんですけど、そこでイベントのやり方を学ばせてもらって良かったと思ってます。
数年務めて、そのあと自分でお店をやろうと思って辞めました。
なんて言うか、ぼくはお金にリアルになりたかったんですよね。
――― お金にリアルに?
杉下 やっぱり「社員」だと、どうしてもお金の責任に向き合い切れないじゃないですか。
だから自分で経営して、お金をリアルに感じられるようにならないとダメだろうって。
――― なるほど。
杉下 そしたら当時の彼女から、いまの妻なんですけど、「GREENROOM合ってるんじゃない?」って言われて。
「いやいやもう社員とか選択肢にないから」って思ったんですけど、ご縁があって入社することになって。
ここがぼくにとって人生最大の転機でしたね。
―――GREENROOM CO.では何年ぐらい務められたのでしょうか。
杉下 6年間です。そこでの6年間は、まあ濃かったですね(笑)
――― 1話目でGREENROOM FESTIVALのディレクターを務められていた、という話がありました。
杉下 はい。フェスのディレクターとして企画やらアーティストのブッキングやらをしていました。
最初に勤めたイベント運営会社はあくまで「運営」なので、イベント自体をオーガナイズすることはできなかったんですけど、GREENROOMは主催者ですから。
自分の中でフェスに対する発想がぐるっと変わりました。
――― やりたいことをやれる半面、大変なことも多かったんじゃないですか。
杉下 ぼくがやる前、ディレクターの役割の人は毎年辞めてしまうような感じだったみたいです。
――― そんなにきついんですね。
杉下 きつい仕事って、「やらされてる」っていう気持ちだとパンクしちゃうじゃないですか。
ぼくは「いつか自分でやってやる、ここで何か掴んでやる」っていう気持ちがあったおかげでやりきった感じですね。
――― そして実際に「PACIFIC BEACH FESTIVAL」の開催を決定させてしまうのはすごい!
杉下 もし自分が雇われていて、会社の命令でやっていたらできない理由を並べて実現はしなかったかも知れないですね。
「地元の茅ヶ崎で、自分がやるんだ」っていう熱意とか覚悟があったからだと思います。
――― だから周りの人も心を動かされたんでしょうね。
杉下 茅ヶ崎市観光協会の新谷会長や、市役所、漁組(漁業協同組合)、他にもたくさんの方々にご協力をいただいたおかげです。
あとはぼくの父が茅ヶ崎の自治会で顔が知られていたおかげで、「あんたあの杉下さんのとこの息子なのか」って言われて、話がスムーズになった場面もあったりしました。
――― 杉下さんは「FESTIVAL CO.」という会社を作られましたが、今後もフェス関連のお仕事をしていくイメージでしょうか。
杉下 そうですね。まずは茅ヶ崎でのフェスを成功させたいです。
これを継続的に開催することで、地元の茅ヶ崎に貢献できるようになっていきたいですね。
――― ぜひ毎年恒例のイベントにしていただきたいです。
杉下 あとは最近だと「今年はどのフェス行く?」みたいなことが自然な文化になってきているので、例えばフェス好きが集まるお店を作るのも面白いですよね。
そこに行けばフェスのチケット情報があったり、たまにミニライブができたり、壁に貼ってある歴代のフェスポスターを見ながら飲めたりして。
――― それは話が尽きなさそうです。
杉下 ドリンクは「フジロック」とか「サマーソニック」とかシャレっぽいネーミングにして・・・って勝手にこんなこと言って大丈夫かな(笑)
とにかくフェスを軸にしながら色んなことができたらハッピーだろうなって思います。
――― 杉下さんが今後どんなことを仕掛けていくのか、楽しみです。インタビューは以上です。ありがとうございました。
(おしまい)
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【Think Chigasaki:FESTIVAL CO.の杉下正樹さん】
・第1話 茅ヶ崎・サザンビーチ初の有料野外フェス「PACIFIC BEACH FESTIVAL」を仕掛ける
・第2話 地元・茅ヶ崎からフェスを始める。GREENROOM の修行を経てフェス企画会社を設立。
▼インタビュー・編集 小野寺将人(Facebook / Twitter)
2015年、茅ヶ崎市に移住。「エキウミ」の管理人。住宅・不動産サイト運営会社、お出かけ情報サイト運営会社にて営業・企画職を経た後、現在は総合ポータルサイトにて企画職に従事。ハンドメイドアクセサリーブランドm'no【エムノ】のウェブマーケティングも行う。
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