エキウミ:茅ヶ崎駅と海をつなぐ雄三通り

エキウミは、茅ヶ崎駅の南口と海を一直線に繋ぐ「雄三通り」を中心に、茅ヶ崎で「働く人」と「住む人」を繋ぐサイトです。

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【trust bodyの川西翔太さん】大人たちを元気にすることで、子どもたちを元気にしたい

(前回の記事はこちら→人の役に立つ仕事がしたい。理学療法士から整体院&セミナー講師業へ転身。)――― 茅ヶ崎の雄三通りに作られたtrust bodyを通じて、どんなことをしていきたいですか。川西 まず、私自身がここから出来ることっていうのは、まず健康に関することだと思うんですよね。「Therapist infinity」という社名の由来は、その人の無限の可能性、例えば身体が悪い人でも良くなる可能性がある、そういうところに、ここに来た人が気づいてもらいたいと思っているんです。――― infinity(インフィニティ)は日本語でいうと無限大という意味ですね。川西 はい。健康じゃないことで好きなことが出来ない、諦めてしまうっていう方はすごく多いじゃないですか。そういう方に向けて、例えば食や、運動や、施術や、メンタルサポートなど、なんでも良いので入口を用意するサポートをしていく、それがその方やその方の周りの人生をサポートするということになると思っています。trust bodyがやっていきたいことは、そういうことです。――― 健康の切り口から人生をサポートするということですね。川西 あと私は子どもたちに貢献したいっていう気持ちがすごく強いんです。やはり大人が健康じゃないと子どもは健康じゃなかったりとか、大人が元気じゃないと子どもは元気じゃなかったりっていうのを散々見てきたんですね。私はそういう連鎖を断ち切りたいんですよね。大人が元気に変わることで子どもも元気になるし、子どもが元気になることで、これからの未来が少しでも良くなっていったら良いなと思うんです。↓trust bodyの内観

【trust bodyの川西翔太さん】人の役に立つ仕事がしたい。理学療法士から整体院&セミナー講師業へ転身。

(前回の記事はこちら→整体院×フィットネスで地域を元気にしたい)――― 前回、もともと理学療法士をされていたというお話を伺いました。そもそも川西さんはなぜその道を選んだのでしょうか。川西 私自身は大阪の出身なんですが、私の親戚が理学療法士として茅ヶ崎で「アールアンドシー湘南」という介護の会社を経営しているんですね。私は学生のときから人の役に立つ仕事がやりたくて、最初は教師になりたかったんですが学力がなくて大学にいけなくて(笑)それならその親戚から話を聞いていた理学療法士になろうと。――― 人の役に立つ仕事がやりたかったのですね。川西 はい。それで大阪の急性期病院っていう、急な病気や怪我などで緊急に治療が必要な患者さんを診るところで勤め始めました。――― 私の理解だと、理学療法士の方は動かなくなった体を動くようにしてくれる人っていうイメージなんですが、合っていますか。川西 合っています。私がいたところは、術後の寝たきりを一緒に起こして動けるようにするっていう、発症当初からやるところでした。とても必要な仕事であるということを強調した上で、ただ正直な話をすると、現状の理学療法士の仕事の範疇では思うような結果が出ないこともあるわけです。本当にやるべきだと自分が思うことができない、期待に応えられないということへの無力感から、仕事への熱意を失いそうになる時期もありました。――― その勤めていた病院には理学療法士の先輩方もいたと思いますが、みなさん疑問を持たずに黙々と仕事をされていたのですか。川西 恐らくですが、疑問を持ちながらも仕方なく既定のやり方で働かれていたんだと思います。私はそのうっぷんを晴らすために同僚の看護師さんたちと夜な夜な遊んだりとか、週3、4日は朝まで飲んで出勤とか、そんな時期もありました。――― 川西さんにもそんな時期があったのですね。川西 お酒もタバコも当時はひどくて、当時は80キロくらいありました。↓大阪で理学療法士をしていた頃の川西さん

【茅ヶ崎館の森浩章さん】茅ヶ崎館は、「茅ヶ崎」と「小津安二郎監督」という二つの看板を背負っている。

(前回の記事はこちら→Suchmosと会って感じたこと。自分の感性を信じてあげるということ。)―― 森さんは茅ヶ崎館の館主であると同時に、様々な文化活動もされていますよね。森 はい。ここ数年で盛り上がりを見せてきた「茅ヶ崎映画祭」や、「茅ヶ崎の文化景観を守る会」や「湘南庭園文化祭」などを推進しています。――― 茅ヶ崎館に繋がるものとして考えて行っている活動なのでしょうか。森 そもそも茅ヶ崎館には「茅ヶ崎」という名前が入っているので、「茅ヶ崎」という名前から連想されるイメージを良くしていきたいという使命感は人よりもあると思います。文化を育むというのはすぐに効果が出る話ではなくて、それこそ10年単位で活動していかなければいけません。――― 「海を育てるには、まず山を育てる」というような話と似ていますね。森 まさにそうで、文化活動だけでなく、誰かと誰かを引き合わせたり、それこそ雄三通りの活性化活動に意見を出したりすることも含めて、沢山の種まきをしているという気持ちでやっています。最近は野外で映画を上映するようなことがよく行われますが、それを実行している大人たちは皆、口を揃えて「子どもたちが大人になったら、自分たちで企画するようになったら良いね」と言っています。↓第7回 茅ヶ崎映画祭は2018/6/9~24に開催される(公式サイト)

【日本音楽制作者連盟の安部次郎さん】週二日東京勤務、ほぼ毎日サーフィンという、茅ヶ崎の暮らし。

【茅ヶ崎館の森浩章さん】Suchmosと会って感じたこと。自分の感性を信じてあげるということ。

(前回の記事はこちら→家業の理由なき慣習に従うことはできない。外資の企業に修行へ。)――― ワーナー・マイカル・シネマズで鍛えられた後、茅ヶ崎館に戻ってからはどうでしたか。森 そうですね、相変わらず父とは喧嘩をよくしていました。ただ、こちらも自分の考えを実現させる力がついていたので、実績を積みながら認めていってもらい、20代前半のうちに経営は任されるようになりました。――― それは素晴らしいですね。森 それから20年旅館運営をしていますが、世の中の家族と一緒に働いている人共通の話だと思うんですけど、結局身内との諸々が一番大変だったかも知れません。そんな中で、ワーナー・マイカル・シネマズの方の話じゃありませんが、外の人から多くの金言をいただいたりして、そういう言葉に支えられてきた部分もあります。――― 他にも印象に残っている言葉はありますか。森 昔、茅ヶ崎で子どもたちに良い映画をフィルムで見せていた、「先生」と慕われるご年配の方がいたんですね。その方は戦争を経験された後、戦後に仕事で騙されたりしたことも沢山あったらしいのですが、そこを乗り越えた先に出た言葉が「足を引っぱるな、手を引っぱれ」だったんですね。  

【茅ヶ崎館の森浩章さん】家業の理由なき慣習に従うことはできない。外資の企業に修行へ。

(前回の記事はこちら→茅ヶ崎と映画、茅ヶ崎館と小津安二郎監督)――― 森さんが働き始める前の学生時代には、どのような勉強をされていたのでしょうか。森 学生最後で言うと、工業デザインの専門学校です。もともと美術や造型、特にタイヤのついているものが好きだったので、そういう道を探していたときに、海外にいる親戚からインダストリアルデザインという専門職のことを教えてもらったのがきっかけで入学を決めました。――― 親御さんからは家業を継いで欲しいという話はなかったのでしょうか。森 父からは「自分がやりたいことで、手に職がつけられるものをやった方が良い」という話をされていて、家業を継ぐかどうかのところでうるさくは言われませんでした。――― そうなのですね。工業デザインの学校では何を学ぶのですか。森 基本的なデッサンから、コンセプトの立て方まで、デザインの考え方を学びました。そこで何事にもしっかりとした理由付けがすごく大事ということを学ぶことができたのが、いまでも活きています。やはりコンセプトが定まっていない状態では良いものは生まれないし、良い仕事もできないではないかと思います。もともと私自身が意味合いを求めるタイプだったので、性に合っている部分もあったのかも知れません。――― なるほど。森 専門学校は当時三年制だったのですが、両親が高齢ということもあり早めに継がなければならないと思うようになり、二年間で辞めました。ただこれに関してはやはり学ぶことが多かったですし、この歳になって自分に足りないものも改めて見えてきましたので、また勉強したいという気持ちが大きくなってきています。――― 大人になって学習意欲がわくのはわかります。森 そして今後の事を色々と考えているときに、1995年1月17日の阪神淡路大震災が起きました。日頃、両親から戦争を経験していない世代は、考えが甘いみたいに言われていたので、きっかけは不謹慎ですが。自分の経験のために神戸の東灘区にボランティアに行きました。――― はい。森 その後で茅ヶ崎館で働くようになったのですが、ほぼ毎日父とは喧嘩をしていました。

【日本音楽制作者連盟の安部次郎さん】好きなことでインプットし、飯のタネをつくる。「ブレッド&バター」のマネジメントに奔走した20代。

(前回の記事はこちら→一番矢面に立つ実演家の権利を守る。著作隣接権の普及に従事。)――― 以前、キャラクターデザイナーのRYU AMBEさんにお話を伺ったとき、次郎さんから「30歳までは何をしていても良い。好きなことを見つけて、インプットをたくさんしろ」という言葉をかけてもらったとおっしゃっていました。安部 はい。それはいまでもそう思っています。ぼくも30歳頃までは好きなことしていたので…。――― 次郎さんはどんなことをされていたのでしょうか。安部 大学三年生のとき、茅ヶ崎に「ブレッド&バター」というお店があって、そこでアルバイトをしていたんですね。そこは音楽好きが集まるような場所で、ライブをやろうとか、東京からも色んな人呼んでみようとか、そんなことをしながら音楽業界に入っていったんです。――― はい。安部 その頃に南佳孝さんが、「ローリングサンダーココナッツ」という今では伝説のコンサートに出演する事になって、一緒に来ないかと誘っていただいたんですね。そこには僕が憧れていたジョン・セバスチャンやスタッフなどのUSミュージシャンが多数出演していて、バックヤードに居たので、錚々たる面々のかっこいいシーンが目に焼き付いてしまって、「あぁ、 やっぱオレこのバックステージにいたいわ」って。そのうち兄弟デュオの「ブレッド&バター」の活動再開の話が出て、ぼくが22歳だったのかな、どういうわけか一緒に会社を作ることになって、30歳ぐらいまで彼らのマネジメントとかプロデュースの仕事をしていました。――― 22歳ということは、大学卒業で社会人を始めますという瞬間に、会社を作っちゃったっていうことですよね。安部 いま考えるとめちゃくちゃですよね。大した経験もないのにね(笑)――― たしか次郎さんは慶応義塾大学にいらしたんですよね。周りは大手企業に勤めたりしていたんじゃないですか。安部 そうですね、一緒にやっていた仲間もいたんですけど、だんだんと就職活動で離れていっちゃいましたね。あと家もサラリーマン家庭だったので、親からは「何やってんの?」っていっつも言われていましたし(笑)――― そうですよね。安部 でも自分はもう音楽の世界にハマっちゃったもんだから、単純に、最高に楽しいことがしたいなって。それですぐに飯が食えるかって言ったら確信はないんだけど、たぶん若かった分「これだ!」って思ったところに入っていけたんでしょうね。――― そこから30歳頃までその仕事を続けたんですね。↓当時の安部次郎さん